阿蘇人のくらしの歴史

阿蘇人は、どこでくらし、どのようにくらしていたのだろう?

【旧石器時代】:阿蘇カルデラは湖の状態

遺跡の分布
くらしのようす

外輪山の外側の水源地を中心に滞在日数が短い遊動的、狩猟採集(キャンプ的)生活を始めました。もっとも古い遺跡は、約32,000年前です。

遺跡エリア:カルデラ上部(外輪山の外側)から火砕流台地山麓を生活領域としていました。

旧石器時代終末期になると、カルデラ内においても狩猟や植物採集を行い始めます。

遺跡エリア:カルデラ内の斜面や丘陵部。

 

【縄文時代】:

南郷谷はカルデラ内での生活が可能となり、遺跡が多く見つかっています。阿蘇谷は、湿地帯が多く、定住生活にはむいていなかったようです。その後8000年前ごろになると阿蘇谷でもカルデラ縁での生活が始まりました。

遺跡の分布
くらしのようす

16,000年前~2,400年前(草創期~晩期)

人々の生活跡が多数出土しています。キャンプ的生活が主流だったようですが、後・晩期頃になると一定の規模を持つ集落跡が出土しています。

遺跡エリア:外輪山中腹や山麓(山と平地との境目)を生活エリアとしていました。

・拠点集中的な遺跡

・狩猟採集の基地としての短期間滞在型

   →2種類の意味合いを持つ遺跡が見つかっています。

 

【弥生時代】:

弥生時代前期の遺跡の出土は少なく、弥生時代中期以降に、カルデラ内に集落跡が広がってきます。

遺跡の分布
くらしのようす

2,300~1,700年前

人々はカルデラ内の低地に生活拠点を広げ、集落を形成していきます。

カルデラ内の湧水を求めたものであり、それは稲作文化が始まったこととも大きく関係します。カルデラ内の低地に集落を形成したのもそのためです。しかし、広大な湿地帯や火山地帯という過酷な自然環境であったことには変わりなく、稲作可耕地は限定されていたと思われ、狩猟や畑作も並行して行われていました。

稲作には不利な条件が多かったにもかかわらず、阿蘇カルデラ内には大規模な集落が形成されました。それは遺構だけでなく出土する遺物からみても言えることです。大陸系の青銅器や九州地方の遺物が多数出土しています。その背景には阿蘇谷赤水原産の「阿蘇黄土」(褐鉄鉱)を加熱して精製した「ベンガラ」(赤い顔料)や鉄器精製の鍛冶加工技術の確立などが考えられ、それらを活用した活発な交易を通じて阿蘇カルデラの地域文化を築き上げていったと思われます。

 

【古墳時代】:

古墳の分布は阿蘇谷側に多く見られ、古墳時代後期になると外輪山上やすそ野、溶結凝灰岩のある崖面に横穴墓群を作り始めました。

遺跡の分布
くらしのようす:中通古墳群

1700~1400年前阿蘇地域の集落の実態は遺跡調査がされていないためわかっていません。しかし九州一大きな前方後円墳(長目塚古墳)を持つ中通古墳群が阿蘇谷に形成されていることからも分かるように、稲作形成と本格的な開拓を経て生産性の高い阿蘇谷を基盤とした有力な首長が登場したものと考えられます。

 

【阿蘇人のくらしの場所の移り変わり】

白丸:旧石器時代 青丸:縄文時代 緑丸:弥生時代

遺跡の位置を見てみると、大むかしの人たちは時とともに活動している場所(くらしの場所)を移動していることが分かります。

なぜ人々は最初からカルデラ内で生活を始めなかったのでしょうか?

阿蘇カルデラは、巨大火砕流噴火の後、カルデラ湖でした。その後、外輪山西側(立野)で2千年に一度くらい繰り返し起きる地震によって壁がくずれ、湖の水が流れ出ていきました。

・4万年前ごろに南郷谷(カルデラ南側)の湖がなくなりました

・8200年前には阿蘇谷(カルデラ北側)の湖がなくなりました

そして現在の阿蘇カルデラとなったのです。

 

もっとくわしく知りたい人のページ

YouTube (阿蘇火山博物館チャンネル) では、阿蘇・火山生活講座で詳しい話をしています。

約9万年前の阿蘇巨大カルデラ噴火の後、日本列島ではおよそ4万年~3万5千年前にヒトが住み始めました。今回の講座では、阿蘇火山博物館が収蔵する資料の中から、旧石器時代、縄文時代、弥生時代に使われていた石器を紹介し、人々の生活とともに石器がどのように変化してきたのか、どのような石を石器として利用してきたのかを紹介していきます。