古坊中遺跡(山岳信仰)
奈良・平安時代頃から戦国時代頃まで、阿蘇山上神社から草千里の間にかけて多くの修行僧が修行を行っていました。
三十六坊五十二庵(寺院)があったとされています。
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ふもと坊中
島津軍の阿蘇侵攻や火山活動の活発化などにより古坊中はなくなりましたが、加藤清正により麓に信仰の場は移されました。麓坊中と呼ばれています。現在の阿蘇駅付近には、坊中という地名が残されています。麓坊中の中心、西巌殿寺では、当時の修業の一部をみることができます。
古坊中の少しむずかしいはなし
1931年に昭和天皇が阿蘇を訪れられることになり(阿蘇行幸)、道路を建設することになりました。1930年草千里から山上広場までの道路を建設するにあたり、下の図に示す「古坊中地形図」を作成しています。
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これによると36坊52庵あり、中枢部には阿蘇山上神社、西巌殿大本堂のほか伊勢小社、住吉明神小社、春日明神小社など30以上の寺を配置しています。
昔このような大規模な信仰の拠点を、気候は寒く交通の便も悪く、更に中岳の噴火の被害も受けそうな場所に設けたことは驚きです。誰がいつ、何のために作ったのでしょうか。そしてなぜなくなったのでしょうか。
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今は跡形もなく広い草原になっています。
古坊中の歴史
1.開基(かいき):古坊中を開いたとき
開基には2説あります。
(1)726年(奈良時代)インド渡来の僧最栄が聖武天皇の勅願を受け阿蘇山上に登った。出典:フリー百科辞典「ウィキペディア」
当時の日本は地震や凶作による飢饉など様々な災いが起こったので、聖武天皇は仏教で国を守ることを取り入れ、全国に国分寺を作り都奈良には大仏を作りました。
火山の噴火に対してはその以前より国に災いをもたらすと恐れられ「火口鎮めの儀」などを中央政府が指示していました。聖武天皇が阿蘇火山の麓に古坊中を開かせたのではないかと想像されます。
(2)1144年(平安時代)
比叡山の慈恵大師良源の弟子最栄が阿蘇神社大宮司友孝の許しを得て阿蘇山上に登った。出典:フリー百科辞典「ウィキペディア」
鳥羽上皇の時代で、上皇は仏教信仰に厚く盛んに造寺、造仏を行いました。比叡山に古坊中を開くよう指示したのではないかと想像されます。
2.何をどこに祀って祈ったのでしょうか
阿蘇山火口の西の巌殿に十一面観音菩薩を安置し、山上本堂を開き、絶えず法華経を読誦した。そのため本堂は西巌殿(にしのいわどの)と呼ばれ、最栄は最栄読師とよばれた。
古坊中の地形図に記載の十一面観音のあたりにそれではないかと思われる岩窟があります。
ここに十一面観音を安置した岩窟ではないかと想像される |
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当時阿蘇神社の主祭神健磐龍命(たけいわたつのみこと)は十一面観音の化身として現れたという思想があります。この思考を本地垂迹(ほんじすいじゃく)と言います。健磐龍命と十一面観音は同一のものと考えられていました。
3.その後の古坊中は
- 多くの修行僧、修験者が集まり、36坊52庵を設ける。
- 16世紀末(安土桃山時代)島津と大友の戦乱や豊臣秀吉の九州統一時、宗徒や行者は離散した。
- 1600年加藤清正が山上本堂と麓に36坊を復興した。山上を古坊中、麓を麓坊中との名称になった。
- 室町時代から江戸時代にかけて「阿蘇講」と呼ばれる観光・修験道体験がおこなわれた。
- 明治になって神仏分離で寺は廃寺となる。
- 1871年山上本堂を麓坊中の学頭坊に移し、1874年学頭坊を西願殿寺とする。
- 1890年保存のため山上本堂を再建し西願殿寺奥の院とした。
- 1930年道路建設時古坊中は草原とされ貴重な古坊中の遺跡はなくなりました。
- 文化財保護法が制定されたのは1950年で、それ以前は昔の文化財より今の生活のためのものが優先されたのです。
- 2001年麓本堂が不審火により焼失したが、僧坊などに残った文化財と共に信仰を継続しています。
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左:現在の西巌殿寺奥の院 右:山上阿蘇神社 |
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現在の麓坊中西巌殿寺 |