4-1-02 湯の谷大変

湯の谷大変

阿蘇中央火口丘の南西側(南阿蘇村)に湯の谷温泉があります。この付近一帯は、地獄・垂玉温泉とともに阿蘇でも数少ない地熱地帯のひとつです。湯の谷の温泉としての歴史は14世紀頃から始まります。西嚴殿寺文書(東京大学史料編纂所,1971)によると、天授2(1376)年に湯の谷が阿蘇山上の霊場「古坊中」の坊湯として当時の僧たちに保養の場などとして既に使われていたようです。

近年においては昭和14年(1939)に宿泊施設として阿蘇観光ホテルが建設されました。その頃温泉を採取するためのボ-リングが数本掘られ、そのうちの一本は20~30m程の高さに噴き上げる間欠泉となり、当時の地元新聞でも大きく報じられました。その後時期や理由は明らかではありませんが、間欠泉の噴出は止まったようです。ホテルは年間約6万人の観光客に利用されていましたが、平成11(1999)年12月に閉鎖されました。

当時の阿蘇観光ホテルと「湯の谷火口跡」

 

〈湯の谷大変とは?〉

現在の南阿蘇村、当時の長陽村の村史発行に合わせて、資料調査をされている中で、文化13年(1816年)に湯の谷で発生した水蒸気爆発の様子を描いた絵図(写し)が発見されました。この絵図の内容について阿蘇火山博物館で調査した結果、現地の状況と絵図の様子が一致したことから、信ぴょう性の高い資料であることがわかりました。

左側は噴火前、右側は噴火後の絵図(南阿蘇村歴史民俗資料館所蔵)の写真です。

噴火前の絵図には、12軒の湯宿と観音堂が描かれており、そのうちの3軒の湯宿が谷の中にあるように見えます。そして湯の谷川の北側に湯宿に向かう道が通っており、そのさらに北側に観音堂を通って草千里方面への登山道と思われる道があります。また,観音堂の近くに露天風呂のようなものが描かれています。

噴火後の絵図を見ると、谷中の3軒の湯宿のうち2軒は噴石や砂泥によって破壊し、残りの10軒は傾いたり柱が折れたりして大きく破損しています。そして谷中の湯宿のすぐ上流の右岸で2ヶ所の火口が開口し、噴煙を上げています。2ヶ所の火口の対岸では白煙の上がる様子が描かれており、また木々も折れたり枯れたりしています。そして噴石や土砂が観音堂付近から上流は山奥(雀の地獄付近?)まで飛び散っています。噴火前にあった露天風呂らしきものは消失しています。

 現地調査の結果、この「湯の谷大変」は水蒸気爆発と考えられ、その時に開口したらしい火口跡も残っています。

「湯の谷大変」を起こしたと考えられる火口跡 湯の谷周辺の状況
「湯の谷火口跡」にある雀の地獄

 

〈「湯の谷大変」の名前の由来について〉

この「湯の谷大変」の24年前、寛政4年(1792)の長崎県、雲仙普賢岳噴火時の眉山崩壊による津波災害は、当時の肥後地方では「島原大変肥後迷惑」といわれた大事件です。その余韻が人々の頭の中に残っていたために、藩(或いはある個人)がこのような火山の噴火と噴火災害に興味を持ったのではないかという推測ができます。

 

〈「湯の谷大変」の阿蘇にとっての重要性〉

  1.  文化13(1816)年に起こった「湯の谷大変」に関する信頼性の高い歴史史料が見いだされ、阿蘇地域において中岳以外の場所からも歴史時代に噴火を起こしたことが明らかとなった。

  2. 阿蘇地域で噴火に関する絵図資料が見つかったのは初めて

  3. 湯の谷は古い時代から多くの人々に利用され、さらに近世以降観光地化した温泉でありながら、特に活火山に近い温泉として水蒸気爆発等の活動を引き起こす可能性を秘めている場所であることが再認識されたことは、今後の火山防災を考えるうえで重要な事柄である。

〈中岳の活動との関係〉

古文書資料によると、この時期には中岳でも活発な活動をしていたようです。近年の大学などの調査研究でも中岳の活動と湯の谷地域の地熱活動は関係が深いとされています。

 このようなことから、今後も中岳の活動とともに湯の谷地域の活動にも注目していくことは、防災上も重要な事柄です。

熊本県火山防災協議会では、阿蘇火山の噴火災害について3つのリスクをあげています。

  1. 中岳火口周辺での噴火

  2. 中央火口丘西麓(湯の谷など)での水蒸気噴火

  3. 中央火口丘北西部でのマグマ噴火(米塚や杵島岳のような新しい火山の誕生)

*3の可能性は低いが、想定されています。